自分がモノやヒトに依存していることに気づき、

そしてそこから抜け出したいと本当に思ったとき、

たったひとつ必要なのことは

行動力

もちろん自分と見つめ合うこと、

本当の自分と対話することは必要。

でも、同じ環境で同じ価値観のまま対話したって

ぐるぐる廻るだけだ。

むしろ、依存に気づいたからこその苦しみも加わって

ハイになったりローになったり繰り返す。

そうじゃない?

大事なのは、

今の自分がしがみついてしまっている価値観を

ぶち壊すこと

ぶち壊すためには、新しい価値観を手に入れるしか無い

新しい価値観は、

新しい体験によってのみもたらされる。

普段の自分なら絶対にしないこと

普段の自分ならかかわらない人たち

普段の自分なら絶対行かない場所

読まない本、見ない映画、

そういうものに触れると嫌でも考える

嫌でも思考する。

自分の価値観が揺らぐ

揺らぐまで新しい体験を繰り返す

体験もしないのに、

自分の本当にやりたいこととか

自分の望むこととか、

同じ価値観のままじゃ出てこないよ

望む世界なんてわからないし、

わかったとしてもそれに向かえない。

つまり、

新しい体験をする、という

行動力

その行動力こそ、依存から抜け出す唯一の鍵だ。

ちまちまちまちま考えない。

考えても出てこない

出てきてもどうせ動かない、依存から抜け出せない

なぜなら基本の価値観が変わってないのに

無理に脱出しようと思っても

その古い依存価値観が全力で引き止める。

まずは、自分の今の依存状態を受け入れるだけでいい

受け入れた上で

新しい体験をするために

動く

行動する

何でもいい

いつも同じ時間、同じ場所に行って

同じ人と同じ様な会話をして

同じような毎日を繰り返して

それで価値観なんて変わるはずない

いくら頭で考えて考えて

向き合って向き合っても

ループするだけ。

新しい場所

新しい人

新しい価値観を浴び続ける

そうすれば、気がつけば変わってる

自分との対話も進むし

何がしたいかなんて、どうでもよくなる

自分が依存から抜け出したいなら、

ぐだぐだ考えてないで

動くこと。

特に、僕たち社会不適合者は、

人に束縛されることは大嫌いだから、

人に何を言われようが、

自分の思うがままに行動すればいい

何を言われたっていいよ

常識的なことにこだわってちゃ

おもしろい体験なんてできやしないよ

ビジネスとは、人に価値を与えること。

価値と価値の交換がビジネスであって、
その提供した価値に応じたお金を貰う。

ところでこの「価値」ってなんだろう。

人は生きてる限り、拠り所を求め続ける生き物。

その「精神的な拠り所」を与えること・提供することが

価値の提供なんだ。

携帯電話のサービスもそう。

オシャレなレストランだって
医者や弁護士の専門サービスだって

どれもその物質やサービスそのものに価値があるわけじゃなく、

そこから得られる安心感、

そこに寄りかかってると安全で、楽で、

そういう心地良い感覚を与えているからこそ、

そこに価値がある。

言い換えれば、人に依存場所を提供しているんだ。

だけど人に依存させるには
もともとその人が依存していたモノ、場所から
脱却させる必要がある。

新しい魅力ある依存場所をお客に伝え提供して、

お客が古い依存場所から新しい依存場所に移動したとき

人に価値を提供でき、ビジネスが成立するんだ。

だから、お金を稼ぐ、人に貢献したいと思うなら、
新しい依存対象を示さなければならない。

もしそのお客に継続してずっと価値を提供したいなら、
そのお客に喜んで何度もリピートして欲しいなら、

常に新しい依存対象を示してやるんだ。

ずっと同じものにしがみつかせてはならない。

そのためにも価値を与える僕たちは
常に進化する必要がある。

進化とは、同じような拠り所にしがみつかないこと。

新しい世界、価値観を発見し、
まずは僕たちがそれに寄りかかり、しがみつき、依存し、

その世界を人に示す。

人にそれを示している間にも、
さらに新しい世界を僕たちは探し続ける。

自分のフィルターを強化し続ける。

そしてさらに新しい拠り所、依存対象を見つけ、
人に示し、与える。

大事なことは、ひとつの考えや世界に踏みとどまらないこと。

お客に踏みとどまらせないこと。

そうすれば、お客に継続して価値を与えることができ、

僕たちはそのお客にとっての道案内人になれる。

それはビジネスの成功。

お客は商品やサービスそのものに依存しなくなる。

そう、僕たちに依存する。

そのとき僕たちは経済的自由を手に入れることができる。

非常識で魅力的な道案内になれるように

僕たちは常に新しい価値観を柔軟にとりいれていこう。

依存から脱却し続けていこう。

何のために働くか

それを問い直さなければ

不幸のスパイラルにどんどん巻き込まれ
自由から大きく遠ざかってしまっている人が大勢いる。

何のために働くか

 -自分が生きていくため(食べていくため)

 -家族が生きていくため(食べていくため)

-余暇に自分のやりたいことを存分に楽しむためのお金のため

-単純に今の仕事が楽しいから

いろいろあると思う。

どれも間違いなんてないだろう。

でも、

一番問題なのは、

それを手に入れるためには、

(多少なり)我慢が必要だ、という思い込み

その思い込みは、本当に自分が手に入れたいものを遠ざける。

我慢が必要なんてドMな考えはドブに捨ててしまった方がいい。

もし今我慢しているなら、

どうやったらその我慢をしなくてよくなるか

考えることだ。

我慢を一切せずに働ける方法を必死で考えることだ。

会社の愚痴を口にするなんてことは、一番愚かなことだ。

会社の愚痴ならだれでも言える

会社の愚痴を言うことは、会社に依存していることに他ならない。

まずは自分が何のために働くか

それを手に入れるために、我慢していることや犠牲にしていることを

洗い出し、それを取り除く。

それができない、我慢しなければ食べていけない、というのは、

会社や社会に依存している証拠だ。

 -我慢しなくても、仕事が楽しい、

 -仕事を通して自分の成長を感じられるのが楽しい

-仕事を通して仲間と喜びを共有できるのが楽しい

これは決して理想論なんかではない

今の環境では無理だと思うなら、自立すればいいだけのこと。

自分の好きコトを、好きなように、好きな場所で働いて

それを楽しんで、人に価値を提供して、お金を稼げばいい。

無理だと決めつているのは、他でもない、自分自身。

サラリーマンよりも起業すべきだ、ということをいいたいわけではない。

でも、サラリーマンでいることが、自分の自由な感情を縛るのなら、

起業を選ぶことは、ギャンブルでもリスキーなことでもないということ。

たった一度の人生を、

我慢しながら、本当にやりたいことを諦めながら

愚痴を言いながら働くこと自体、

人生にとって一番リスキーなことだ。

楽して片手間で大きく稼げるほど、今の日本の経済は豊かじゃない、

でも、楽しく自分らしく働ける環境は完璧なまでに整っている。

残念なことに、今までの日本の教育はサラリーマン量産型の教育だ。

自分で稼ぐ能力を鍛える教育なんて誰も教えてくれなかった。

20世紀まではそれでよかった。

サラリーマンは確かに賢い選択だっただろう。

しかしこれからは、

サラリーマンでいることの最大のメリット「安定」が、失われた。

 -安定を保証されないサラリーマン。

 -自由を縛られるだけのサラリーマン。

もし今何か我慢しているなら、我慢なんか一切しなくていい。

自分がやりたいことを存分にやればいい。

失敗しても何度でも何度でもやりなおせる。

僕たち社会不適合者は、組織に合わせることなんてできない

社会的に非常識な意志がある。

そして愚痴は言わない。

組織や会社に依存しない。

我慢なんてしない。

やりたいことを、やりたいようにやる。

そして仕事を通して人に大きな価値を与えたいと思う。

もちろん、自分自身のために。

自分自身の充実感を得るために、

一度きりのこの人生の中で、

この社会に自分が何か貢献したい、

生きた証をこの社会に残したいと思う自然な本能。

自分勝手でわがままなナルシストな本能、

それをむき出しにして行動すれば、

我慢なんかしなくたって、生きていける(食べていける)

仕事にためには多少の我慢が必要なんて

自分自身を縛り付けるような愚かで残酷な考えは、

今すぐドブに捨て去ろう。

 

 

僕たちの自由を縛り付ける依存心は、

親が僕たちに無意識に与えたものが実はほとんどだ。

依存から脱却するには、

そこをいつかほじくり返すときが必ず、来る。

一般的に「いいお父さん、いいお母さん」ほど注意が必要なんだ。

親は、子供に依存する。

必ず依存する。自然の摂理とも言えるくらい。

自分の幸せを、子供の幸せに映し込む。同化させる。

それ自体は何も悪くない

が、

「子供の為を思って」

そう、本人は子供のためと信じて疑わずに、

僕たちに価値観を叩きこむ。

社会のルールもそう。

生き方の価値観もそう。

でも、僕たちは価値観もルールも、

全て自己責任で、そして自分の選択で決めたいと本当は思ってる。

子供が幼いうちに、自分たちがコントロールできるうちに、

親は知らず知らずに子供時代の僕たちの選択の自由を奪う。

そして、

僕たちも気付かないうちに、

「本当にしたいことを自分で選択する」という考えが失われる。

お母さんに喜ばれるよう、

お父さんに褒めてもらえるよう、

そういう他人軸の考え方が染み付く。

自分軸が失われる。

本当は自分はこれがしたいのに。

でも、親が悲しむから、周りが心配するから、

しない。

その繰り返し、繰り返し、繰り返し。

本当は自分はこう思うのに、

社会的には自分の考えが支持されにくいから、

しない。

その繰り返し。繰り返し。繰り返し。

自分の本当の気持ち、自分の本当になりたい自分を見失う

それに気がついても、選択は常に他人軸。

そうなる理由は、

子供時代、親が僕たちの自由な考え、発想を、

社会的な価値観、自分たちの価値観で

おさえこむ訓練をしてきたから。

そして僕たちは自分自身で自由は意志を抑えこむクセを身につけてしまった。

無意識に。

親は子供のためのを思って、と信じて疑わず。

それに気がつかないと、

今度は自分が人に同じ過ちを犯す。

子供に依存する。

子供の反抗期を抑えこむ。

一番大切なことは、

自分の愛すべき大切な子供だからこそ、

自分と子供とは別人格なんだ

と自覚すること。

子供の考えが、たとえ一時的に反社会的なものであったとしても

認めてあげなければならない。

それを正すのが愛じゃない。

愛するなら、認めて、見守ること。

それ以上のことは親は何もできないと認識すること。

その結果、どういうことがあっても

それはその子自身が対処すること。

自分自身の本音で下した選択は、

誰も後悔しない。

子供がどんな行動をしたとしても、

それが、完全なる自分の意志で、自分のためを思ってしたことなら

誰が何を言おうと、その子にとって幸せなことだ。

僕たち社会不適合者は、

実はこの親の依存の呪縛が弱く恵まれてるんだ。

常識とか、あたりまえとか、

そういう価値観を刷り込まれて来なかったからこそ、

今、社会不適合者なんだ。

でも、

自分で自分を縛り付ける、自由を奪う依存心は

僕たちにも必ずどこかに存在する。

自由になりたい、と願う気持ちがあるというのが

その証拠だ。

本当に自由なら、そうは思わない。自由を願わない。

もし自由を得ようとするなら、

その縛り付ける依存の原因を辿る必要がある。

親を憎む必要は全くない

親との依存関係がもしまだ断ち切られていないなら、

自分のため、

そして、

親のために

距離をきっちり置くんだ

距離をおくと、おそらく親は悲しむ

でも、子どもと別人格なんだ、と親がちゃんと認識・理解できることが、

親にとっても依存の呪縛から開放される唯一の方法

親を想うからこそ、

親ときっちり距離を置く。

たとえ、悲しませることになったとしても。

胸が傷んだとしても。

心の中で両親を愛せるのなら、

何も問題はない。

本当の幸せ、自由はそれを乗り越えた先にある。

空気を読め - KY -

なんて日本人的な言葉だろう。

場に合わせなさいって意味が強いよね。

そもそも空気を読めって強く訴える人って、

KYを強く嫌がる人って、

自分と異なる価値観や考えを受け入れるキャパシティーがないんだ。

その場の空気の変化を嫌がる人。

自分が心地よい空間に依存して、

それが変化することを恐れる人。

それが乱されることを強く恐れる人。

その心地良い空間の中に自分の居場所を求めて、

場に合わせすぎて、そいつが空気になってるよ。

人とぼんやり繋がっていることで安心感を感じる

そう、依存だ。

自分の欠如。

人それぞれ考え方も価値観も違う。

言いたいこと、本音もバラバラだ。

言いたいことははっきり言う。

そして相手が言いたいことは受け止める

それに賛成できなくてもね。

いちいち空気を読んでたらそんなことできないよね。

僕たち社会不適合者は、誰にどう思われようが関係ない。

自分の思ってること、自分の世界を、

自由に表現し続けるんだ。

だから、空気を読めなんて、

キャパの狭いちっちゃい風潮なんか気にしない。

空気は読んだ上で、

あえてその空気をぶち破る。

自分がこうだと思うなら、場の空気がどうであろうと、

はっきり自己表現する。

もちろん、相手が何を言い返そうが、

それはそれで受け止める。

空気を読むことを意識しすぎて、

自分をその場に溶かしこんで

カスカスの空気になんかならないし、

どんな場所であろうと

どれだけ価値観が違おうと、

自分の想いをきっちり表現する。

空気を乱されることを恐れるような

小さいキャパシティーを持たないのが

僕たち社会不適合者の強みだね。

辛くて落ち込んだときに
優しい言葉をかけてくるヤツには十分気をつけた方がいい

別に、人の優しさを否定する気持ちは全くない

本当の優しさは素晴らしいものだ。

ただ、

ネガティブになったときに心配してくるヤツ

そいつは、人のネガティブを自分のネガティブに同調させて
自分を安心させてるんだよ。不安定な自分をね。

もちろん、そいつはそんなこと気づいてないだろうけど。

そんな人は、こっちがポジティブ全開のときは
興味を示さないよ、だいたい。

違う?

相手が落ち込んだときに心配してあげて
助けてあげることに生きがいに近い喜びを感じてるんだ。

だから、落ち込まない相手に対しては興味を持たないし、
むしろ自分と違う存在として軽蔑に近い感情を抱く

だから、そんな人が近くにいると、
辛い時に楽な反面、そのネガティブに引っ張られる。

落ちて、助けてもらって、
でも、落ちるとまた助けてもらえるから、
無意識にまた落ちる。無限ループだ。

ネガティブになりたいくないと思いながら、
そいつがいることで、落ちることがクセになるんだ

危ないクスリみたいなもんだね

そんなクソみたいな関係の中にある優しさを優しさって呼ぶなら
自分らしく自由に生きることなんてとうていできないよ。

ぐるぐるぐるぐる上がったり落ちたり上がったり落ちたり。

本当に僕たちが望むべき優しさって

僕たちが最高にポジティブなときに

一緒に喜んでくれる人だ

そして落ち込んだときに、
それを自分が解決できるなんて思わない人だ。

辛い時に、ただ黙って聞いてくれる
ただ黙って、僕たちが自分で解決できるのを待ってくれる。

心配なんて感情は、相手を思いやってるんじゃなくて

結局自分の心配を相手の悩みと同調させてるだけ。

それが気持ちいいなら構わない

それが、世間で言う優しさってやつなら

僕たち社会不適合者はそんな優しさは要らない

自分のことは自分自身で解決するし、

ネガティブに引っ張られるような人間関係を築かない。

そして、僕たち社会不適合者は、

逆に落ち込んだ相手を心配なんかしない

人は人だ、自分は自分だ。

解決できるまで待つ

相手が何か言いたいなら聞く

何か意見を聞かれても、
自分の意見や行為で相手が変わるなんてくだらないこと考えない。

そして、相手がポジティブになったときに一緒に喜んであげるんだ

それが社会不適合者流の優しさ。

とにかく、

ネガティブを食い物にしてるような依存体質のヤツとは

距離をおこう。

 

モノゴトを、

“正しいこと”と”間違ったこと”

に分けて考えることほど、馬鹿げたことはない。

“世間の常識=正しいこと” って

信じる気持ち
信じたい気持ち・・・

そう信じれば、何も考えなくていいから。楽だから。

でも、常識なんて国によって違う。
時代が変われば全く違う。

今の日本の常識なんて、人類が誕生してからほんの極々一瞬のカタチ

それが一番正しいこと、成熟したものだって断定できるほど
そこまでみんな考えてなんかいないよね。

ただただ思考停止。

ヒトに迷惑がかけないこと、とか、

それこそ人によってその基準がバラバラなものを一つにまとめようとしてる。

世の中、どんなことにだって意味はある。

その意味を考えず、視点を変えることすら放棄して、

常識とかいう”あやふやなもの”に流されて、依存して、

正しいこと、間違ったこと、のラベルを一瞬で貼りつけて。

でも、

僕たち社会不適合者は、そんな常識に振り回されない

自分が思うこと、感じることを、

ありのまま受け止める

常識がどうであろうと、

誰が間違ってると言おうと。

- 自分は今どう思うのか、

- 自分は今何をしたいのか、

- 自分は今誰といたいのか。

正しいとか間違いとか本当にどうでもいいよね。

この世の中には

最高の瞬間も、ありえない苦しみも、
出逢いも、つらい別れも、

腹を抱えて笑うことも、泣き続けてボロボロになることも、
楽しくて没頭することも、飽きて投げ捨てることも、

何度も何度も悩んでも、いつもいつも繰り返される。

だから、僕たちはこんな矛盾だらけの世の中に”拠り所”を求めるんだ。

何かにしがみついて、

それを生きがいだとか、正しいことだと信じて

仕事、家族、恋人、社会のルール、
そういうモノ・ヒト・社会に拠り所を求めて

しがみつく

だって、矛盾だらけの世の中で、

何が本当に正しいのかわからないなら
何かにしがみついていた方が楽だからね。

そう、それが依存心。

依存の心は、
自分が助かりたい、楽でありたいと願う気持ちから生まれる。

それは悪いものとは言えないかもしれない。

でもそれが長く続くと、その依存の対象から抜け出せなくなる。

ずっとずっと、抜け出せなくなる。

自分が本当にやりたいこと、なりたい自分が頭をよぎっても、

一度依存したものが、それを拒絶する。

その依存心が、無意識に自分の自由を奪う。

本当に今なりたいと思う自分の気持ちを、全力で引き留める。

だから、何か拠り所を見つけたとしても、そこに長居してはいけない。

長くそれに頼ってはいけない。

次の自分のステージにいつでも自由に向かえるように

依存心とはいつでも決別できる付き合いをしなければいけない。

それは自分のため。

自分自身の”自由”のため。

そして、本当の心の拠り所は自分自身の中に求めること、

それが依存から抜け出す唯一の方法。

頼るべきは自分自身。心の拠り所は自分の中にしかないんだ。