何のために働くか

それを問い直さなければ

不幸のスパイラルにどんどん巻き込まれ
自由から大きく遠ざかってしまっている人が大勢いる。

何のために働くか

 -自分が生きていくため(食べていくため)

 -家族が生きていくため(食べていくため)

-余暇に自分のやりたいことを存分に楽しむためのお金のため

-単純に今の仕事が楽しいから

いろいろあると思う。

どれも間違いなんてないだろう。

でも、

一番問題なのは、

それを手に入れるためには、

(多少なり)我慢が必要だ、という思い込み

その思い込みは、本当に自分が手に入れたいものを遠ざける。

我慢が必要なんてドMな考えはドブに捨ててしまった方がいい。

もし今我慢しているなら、

どうやったらその我慢をしなくてよくなるか

考えることだ。

我慢を一切せずに働ける方法を必死で考えることだ。

会社の愚痴を口にするなんてことは、一番愚かなことだ。

会社の愚痴ならだれでも言える

会社の愚痴を言うことは、会社に依存していることに他ならない。

まずは自分が何のために働くか

それを手に入れるために、我慢していることや犠牲にしていることを

洗い出し、それを取り除く。

それができない、我慢しなければ食べていけない、というのは、

会社や社会に依存している証拠だ。

 -我慢しなくても、仕事が楽しい、

 -仕事を通して自分の成長を感じられるのが楽しい

-仕事を通して仲間と喜びを共有できるのが楽しい

これは決して理想論なんかではない

今の環境では無理だと思うなら、自立すればいいだけのこと。

自分の好きコトを、好きなように、好きな場所で働いて

それを楽しんで、人に価値を提供して、お金を稼げばいい。

無理だと決めつているのは、他でもない、自分自身。

サラリーマンよりも起業すべきだ、ということをいいたいわけではない。

でも、サラリーマンでいることが、自分の自由な感情を縛るのなら、

起業を選ぶことは、ギャンブルでもリスキーなことでもないということ。

たった一度の人生を、

我慢しながら、本当にやりたいことを諦めながら

愚痴を言いながら働くこと自体、

人生にとって一番リスキーなことだ。

楽して片手間で大きく稼げるほど、今の日本の経済は豊かじゃない、

でも、楽しく自分らしく働ける環境は完璧なまでに整っている。

残念なことに、今までの日本の教育はサラリーマン量産型の教育だ。

自分で稼ぐ能力を鍛える教育なんて誰も教えてくれなかった。

20世紀まではそれでよかった。

サラリーマンは確かに賢い選択だっただろう。

しかしこれからは、

サラリーマンでいることの最大のメリット「安定」が、失われた。

 -安定を保証されないサラリーマン。

 -自由を縛られるだけのサラリーマン。

もし今何か我慢しているなら、我慢なんか一切しなくていい。

自分がやりたいことを存分にやればいい。

失敗しても何度でも何度でもやりなおせる。

僕たち社会不適合者は、組織に合わせることなんてできない

社会的に非常識な意志がある。

そして愚痴は言わない。

組織や会社に依存しない。

我慢なんてしない。

やりたいことを、やりたいようにやる。

そして仕事を通して人に大きな価値を与えたいと思う。

もちろん、自分自身のために。

自分自身の充実感を得るために、

一度きりのこの人生の中で、

この社会に自分が何か貢献したい、

生きた証をこの社会に残したいと思う自然な本能。

自分勝手でわがままなナルシストな本能、

それをむき出しにして行動すれば、

我慢なんかしなくたって、生きていける(食べていける)

仕事にためには多少の我慢が必要なんて

自分自身を縛り付けるような愚かで残酷な考えは、

今すぐドブに捨て去ろう。

 

 

僕たちの自由を縛り付ける依存心は、

親が僕たちに無意識に与えたものが実はほとんどだ。

依存から脱却するには、

そこをいつかほじくり返すときが必ず、来る。

一般的に「いいお父さん、いいお母さん」ほど注意が必要なんだ。

親は、子供に依存する。

必ず依存する。自然の摂理とも言えるくらい。

自分の幸せを、子供の幸せに映し込む。同化させる。

それ自体は何も悪くない

が、

「子供の為を思って」

そう、本人は子供のためと信じて疑わずに、

僕たちに価値観を叩きこむ。

社会のルールもそう。

生き方の価値観もそう。

でも、僕たちは価値観もルールも、

全て自己責任で、そして自分の選択で決めたいと本当は思ってる。

子供が幼いうちに、自分たちがコントロールできるうちに、

親は知らず知らずに子供時代の僕たちの選択の自由を奪う。

そして、

僕たちも気付かないうちに、

「本当にしたいことを自分で選択する」という考えが失われる。

お母さんに喜ばれるよう、

お父さんに褒めてもらえるよう、

そういう他人軸の考え方が染み付く。

自分軸が失われる。

本当は自分はこれがしたいのに。

でも、親が悲しむから、周りが心配するから、

しない。

その繰り返し、繰り返し、繰り返し。

本当は自分はこう思うのに、

社会的には自分の考えが支持されにくいから、

しない。

その繰り返し。繰り返し。繰り返し。

自分の本当の気持ち、自分の本当になりたい自分を見失う

それに気がついても、選択は常に他人軸。

そうなる理由は、

子供時代、親が僕たちの自由な考え、発想を、

社会的な価値観、自分たちの価値観で

おさえこむ訓練をしてきたから。

そして僕たちは自分自身で自由は意志を抑えこむクセを身につけてしまった。

無意識に。

親は子供のためのを思って、と信じて疑わず。

それに気がつかないと、

今度は自分が人に同じ過ちを犯す。

子供に依存する。

子供の反抗期を抑えこむ。

一番大切なことは、

自分の愛すべき大切な子供だからこそ、

自分と子供とは別人格なんだ

と自覚すること。

子供の考えが、たとえ一時的に反社会的なものであったとしても

認めてあげなければならない。

それを正すのが愛じゃない。

愛するなら、認めて、見守ること。

それ以上のことは親は何もできないと認識すること。

その結果、どういうことがあっても

それはその子自身が対処すること。

自分自身の本音で下した選択は、

誰も後悔しない。

子供がどんな行動をしたとしても、

それが、完全なる自分の意志で、自分のためを思ってしたことなら

誰が何を言おうと、その子にとって幸せなことだ。

僕たち社会不適合者は、

実はこの親の依存の呪縛が弱く恵まれてるんだ。

常識とか、あたりまえとか、

そういう価値観を刷り込まれて来なかったからこそ、

今、社会不適合者なんだ。

でも、

自分で自分を縛り付ける、自由を奪う依存心は

僕たちにも必ずどこかに存在する。

自由になりたい、と願う気持ちがあるというのが

その証拠だ。

本当に自由なら、そうは思わない。自由を願わない。

もし自由を得ようとするなら、

その縛り付ける依存の原因を辿る必要がある。

親を憎む必要は全くない

親との依存関係がもしまだ断ち切られていないなら、

自分のため、

そして、

親のために

距離をきっちり置くんだ

距離をおくと、おそらく親は悲しむ

でも、子どもと別人格なんだ、と親がちゃんと認識・理解できることが、

親にとっても依存の呪縛から開放される唯一の方法

親を想うからこそ、

親ときっちり距離を置く。

たとえ、悲しませることになったとしても。

胸が傷んだとしても。

心の中で両親を愛せるのなら、

何も問題はない。

本当の幸せ、自由はそれを乗り越えた先にある。

空気を読め - KY -

なんて日本人的な言葉だろう。

場に合わせなさいって意味が強いよね。

そもそも空気を読めって強く訴える人って、

KYを強く嫌がる人って、

自分と異なる価値観や考えを受け入れるキャパシティーがないんだ。

その場の空気の変化を嫌がる人。

自分が心地よい空間に依存して、

それが変化することを恐れる人。

それが乱されることを強く恐れる人。

その心地良い空間の中に自分の居場所を求めて、

場に合わせすぎて、そいつが空気になってるよ。

人とぼんやり繋がっていることで安心感を感じる

そう、依存だ。

自分の欠如。

人それぞれ考え方も価値観も違う。

言いたいこと、本音もバラバラだ。

言いたいことははっきり言う。

そして相手が言いたいことは受け止める

それに賛成できなくてもね。

いちいち空気を読んでたらそんなことできないよね。

僕たち社会不適合者は、誰にどう思われようが関係ない。

自分の思ってること、自分の世界を、

自由に表現し続けるんだ。

だから、空気を読めなんて、

キャパの狭いちっちゃい風潮なんか気にしない。

空気は読んだ上で、

あえてその空気をぶち破る。

自分がこうだと思うなら、場の空気がどうであろうと、

はっきり自己表現する。

もちろん、相手が何を言い返そうが、

それはそれで受け止める。

空気を読むことを意識しすぎて、

自分をその場に溶かしこんで

カスカスの空気になんかならないし、

どんな場所であろうと

どれだけ価値観が違おうと、

自分の想いをきっちり表現する。

空気を乱されることを恐れるような

小さいキャパシティーを持たないのが

僕たち社会不適合者の強みだね。

モノゴトを、

“正しいこと”と”間違ったこと”

に分けて考えることほど、馬鹿げたことはない。

“世間の常識=正しいこと” って

信じる気持ち
信じたい気持ち・・・

そう信じれば、何も考えなくていいから。楽だから。

でも、常識なんて国によって違う。
時代が変われば全く違う。

今の日本の常識なんて、人類が誕生してからほんの極々一瞬のカタチ

それが一番正しいこと、成熟したものだって断定できるほど
そこまでみんな考えてなんかいないよね。

ただただ思考停止。

ヒトに迷惑がかけないこと、とか、

それこそ人によってその基準がバラバラなものを一つにまとめようとしてる。

世の中、どんなことにだって意味はある。

その意味を考えず、視点を変えることすら放棄して、

常識とかいう”あやふやなもの”に流されて、依存して、

正しいこと、間違ったこと、のラベルを一瞬で貼りつけて。

でも、

僕たち社会不適合者は、そんな常識に振り回されない

自分が思うこと、感じることを、

ありのまま受け止める

常識がどうであろうと、

誰が間違ってると言おうと。

- 自分は今どう思うのか、

- 自分は今何をしたいのか、

- 自分は今誰といたいのか。

正しいとか間違いとか本当にどうでもいいよね。